あるとき、一体何のために、そんなに本を読んでいるのか、と問われた。
「本を読めば読むほど、本が読めるようになるから。」というのが、私の答えだ。
つまり、本を読めば、これまでに読んだ本の理解が深まり、また、これから読む本を読み解く知識にもなってくれる。本を読むために、本を読んでいるのである。
本を読めば、読んだ本を積み上げた高さから、世の中を見渡せるとも聞いたことがある。
本を読めばまた、さらに本を読むことができ、そうして、私の世界を広く高くしていきたいというのが最終的な目標である。
こう書くと、読書による効用は素晴らしいことのようだが、私の場合、そうでもない方向へと進んでいる。
というのも、本を次から次へと読むようになって、確かに世界の広がりを感じないわけではないが、黙々と本を読み、うず高く積み上げた本の山の頂で、私は1人、本の世界に1人住んでいるような気がする。
例えば、職場の飲み会や女子会に参加しても、気がつくと、まるで本の行間を読むように、人の話を聞いていたりする。
どうやら私は、”本を読む”と”話を聞く”とが、全く同じになってしまっているというか、思考への入力方法の基本が、”本を読む”になっているようだ。
聞くより、読む。話すより書くことの方がうんと長くなってしまったように思う。
ただ、それだけならまだよかったのだが、最近の新しい現象としては、本のような人が好きというか、人を本のように捉えるというか、そういう境地にまで至っていす。ちょっと変態化してきた。
そうして読んだ本たちを、私の中に取り込んで、それはいつしか私という本になり、私はそれを吐き出してエッセイに書いている。
私のエッセイを読んでいるあなたには、もしかすると私の声が聞こえているのかもしれない。
*エッセイ的なもの