てつねこくおりてぃ

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【エッセイ】誕生日の記憶

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先日、私のうん十うん回目の誕生日を迎えた。

 

昔、誰かに聞いたことだが、過去を振り返り、記憶のある1番小さい頃の誕生日の記憶から、その人が何歳ごろに物心ついたのかがわかるという。

ちなみに、物心がつくとは、 幼児期を過ぎて、世の中のいろいろなことがなんとなくわかりはじめることをいうらしい。

例えば、私の一番古い誕生日の記憶といえば、私の誕生日に、2つ違いの姉にも、私と同じプレゼントが渡され、私の誕生日なのにと、なんとも納得がいかなかったことを記憶しているが、何歳の頃のことかは思い出せない。

親からしたら、2人が喧嘩しないようにと配慮した結果であろうし、姉の誕生日に、私もプレゼントをもらっていたのかもしれないが、そんなことはわからなかった。

このような状況では、私は物心ついていたとは言い難いだろう。

 次に記憶しているのは、小学校2年生の誕生日だ。確か近所の子らを招いて、人生初の誕生日会を開いた。テレビなどで見る誕生日会という華やかな印象とは裏腹に、何かと文句をつけたがる父が、母の作ったサンドイッチに、あーだこーだ言いがかりを付け、こんなことなら誕生日会なと開かなければよかった、私が誕生日をやりたいと言ったばっかりにこんなことになったと、ひどく後悔したという切ないものだ。

早いのが遅いのか知らないが、私は小学校2年生の頃には、誕生日に、見栄を張ったばっかりに悲しい思いをしつつ、親というものとの距離感を理解し始めていたものと思われる。

これは充分に、物心ついていたといっていいだろう。

ちなみに、私が誕生日会とやらを開いたのは、後にも先にもこの年だけだ。

 

こうしてみると、「誕生日の記憶による物心年齢判定できる説」の真偽は定かではないが、誕生日という日は、ただめでたいだけではなくいろんな思いや事情が絡み合いつつ、さらに記憶と年齢を強く結びつける日なのかもしれない。

 

そういえば友人が、「サンタさんにおもちゃをお願いしていたのに、クリスマスの日の朝、枕元に置かれていたのは、習字セットだった。あの時、サンタクロースはいないと確信した。」と言っていた。

彼は、このころ物心がついたに違いない。

クリスマスも誕生日同様、悲喜交々あり、物心年齢の判定に有効かもしれない。ただ、年齢との結びつきがないため、その有効性は低いだろう。

 

さて、今年の誕生日。

現在は、スマートフォンやSNSなどが普及し、誕生日を登録しておくと、友人知人のほか、Twitterでやり取りするだけの会ったことのない人も含め、お祝いのメッセージをもらえたりする。数えるのもうんざりするほど誕生日を通り過ぎてきたが、メッセージは、やはり嬉しい。ありがたいことだ。

とはいえ、誕生日がめでたい年齢は、もうとっくに過ぎている。

近頃は、誕生日というと、自分の年齢を数え、友人知人の年齢を確認し、お互いにまだ生きていたかと無事を喜び、これからも少しでも長く同じ時間を生きていきたいと願うという、なんとも年寄りじみた日となっている。

 

あと何回かわからないが、誕生日は毎年やってくる。

まだまだ先だとは思うが、物心つくのとは反対に、私が、私の誕生日やメッセージをくれた友人知人のことを認識できなくなる日も来るだろう。

それでも、私が最後に記憶する誕生日が、ただ喜びの日となれば、これまでの誕生日の記憶も、温かいものに塗り替えることができるのではないかと期待している。

 

 

 

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